もどる



  
これが長州五傑だ!
  後列左遠藤謹助   後列右伊藤博文
中央井上勝
  前列左井上馨   前列右山尾庸三
 長州留学生5人組(伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三)が英国に留学した天保3(1863)年から今年は140年目にあたります。伊藤、井上馨は4国連合艦隊の下関攻撃の避戦交渉に翌年帰国しましたが、山尾ら3人は5年後に帰国しました。5人それぞれが近代日本の行政・経済・産業・交通・通信に貢献しました。この長州五傑が学んだロンドン大学にある顕彰碑と同型の碑の設置や山口大学での記念講演会など、様々な 関連行事が今年になって行われてきています。
 図書館ではその5人の功績と歩んだ道を、図書館蔵書資料を参考にして取り上げてみることにしました。

  【長州五傑たち】
  【パネル展示<第1パネル〜第6パネル】
  【展示コーナー】
  【参考資料】   【展示資料】
留学した当時の英国ロンドン
 
開催期間:2003年6月23日〜2003年8月31日
開催場所:図書館1F情報ラウンジ前


長州五傑たち

 伊藤博文(俊輔) 1841−1909
  • 天保12年(1841)現在の熊毛郡大和町で生まれる。その後萩に移り、父:林十蔵が長州藩士伊藤家の養子となったため、「伊藤」姓になった。 1862年、高杉晋作らと、英国公使館を焼き討ちにする。1863年、英国に留学するが、四カ国艦隊による長州攻撃を知り、翌年帰国。外国艦隊との講話に奔走する。
    維新後、外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事等を勤める。 1885年、初代内閣総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の作成と配布等の功績を残す。 1909年ハルピンにおいて暗殺。 享年69歳
 山尾庸三 1837−1917
  • 山口県秋穂二島で長州藩士の次男として生まれる。江戸で航海術を学んだ後、密航、ロンドン、グラスゴーで5年過ごし、1868年に帰国。海軍局教授役を務めた後、明治新政府では工部権大丞・工部少補、大輔、工部卿、法制局長官などを歴任。工部省では人材教育の必要性を説き、工部大学校(現・東京大学工学部)の設立を果たす。わが国初の盲聾学校の設立(1876年)にも力を尽くした。享年81歳
 井上馨(聞多) 1835−1915 
  • 天保6年(1835)山口市湯田で井上家の次男として生まれる。11歳のとき山口講習堂に入学、17歳で萩の藩校明倫館に進学する。1862年世子定広の小姓役となり江戸在勤。1864年7月、四国連合艦隊の下関攻撃の計画を知り、英国より帰国、講話談判のため尽力した。明治新政府になると、外務・農商務・内務・臨時総理・大蔵などの各大臣を歴任。退任後は元老として活躍する一方財界にも強い影響力を持った。享年81歳
 井上勝(野村弥吉) 1843−1910
  • 萩で代官や目付役の要職を勤める武家に生まれ、洋学を重んじた父の影響を強く受ける。長崎で兵学を、江戸では砲術を、さらに函館では英国領事館員に英語を学ぶ。文久3年に、英国ロンドンに密航、留学した。1868年に帰国、藩の鉱業管理の業務に就く。69年、伊藤に請われて明治新政府の造幣頭兼鉱山正に就任の後、1893年まで鉄道頭、鉄道局長官など鉄道行政の最高責任者を勤め、わが国初の東京・横浜間の鉄道、東海道線の開通を果たした。1910年ヨーロッパ鉄道巡視の途次、ロンドンで客死、葬儀にはかっての恩師ウィリアムソン博士の夫人も参列した。享年68歳
 遠藤謹助 1836−1893
  • 天保7年(1836)長門国萩で生まれる。江戸で航海術を学んでいたが、 さらに航海術学ぶため早くから外国行きを希望していた。文久3年(1863)にロンドンへ密航、留学。1866年、英国から帰国後は対外折衝役として下関に常駐。明治新政府では造幣権頭を皮切りに造幣事業に尽力し、1881年造幣局長に就任、日本人だけの手で貨幣を造ることに成功した。大阪・造幣局の「桜の通り抜け」は遠藤が局長時代に始めたもので、彼のレリーフも置かれている。享年58歳


パネル展示 <玄関ホール> 7月31日までパネル公開していました。

   

 第1パネル 長州五傑の略歴紹介

 文久3年、目まぐるしく変化していく時代の中で、海外留学を果たそうとする有志が長州藩にいました。総勢5名の若き長州藩士です。その後5人は、明治維新という荒波の中でそれぞれの道を歩んでいきます。
   

 第2パネル
   5人が留学した1850年代のロンドン地図


 5人が留学した当時のロンドンに近い年代の、ロンドン地図を用意しました。

   

 第3パネル
  年表で見る長州五傑のあゆみ


 5人の生涯及び、当時の国内・国外の動きを年表で紹介します。




   

 第4パネル   留学に関わる人々

 当時の日本では、海外留学は国禁であり、勝手に留学したことが幕府に知れますと、留学した者はもちろん、それを手引きした者も死刑という命がけのものでした。  しかし、それにも関わらず、五人の海外留学が長州藩または国のためになると信じて奔走してくれた人物たちがいたのです。こちらでは、これらの人々がどのようにして留学に尽力したのかを一例を挙げて紹介します。
   

 第5パネル   その後の業績

 長州五傑のうち、近代産業の発展につくした井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の3人をピックアップして、留学後の業績を紹介します。




   

 第6パネル   突然の帰国−下関戦争−

 長州五傑がロンドン留学をはたしてから、その半年後イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヶ国が、下関海峡通行の確保のために、長州藩に向けて攻撃を仕掛けるという情報が5人の耳に入りました。それを知った伊藤博文、井上馨の2人は、直ちに帰国を果たし、外国との戦争を回避するために行動を開始したのでした。このパネルでは、2人の行動を中心としながら、下関戦争について紹介します。




展示コーナー <情報ラウンジ前> 8月31日まで

 
   

 こぼれ話

 井上馨の遭難の碑が山口大学の近くにあったり、皆さんご存知の小岩井農場が井上勝と関係あるなど、彼らにまつわるエピソードをパネルで紹介しています。

   
   
 展示資料



   
山口大学附属図書館