小郡宰判全図について
 林家は、周防国吉敷郡上郷村(別名、上中郷)仁保津(現在の小郡町仁保津) の豪農で、延宝7(1679)年に四代・林文左衛門が初めて上郷村庄屋役を勤めたのを契機に、以後代々庄屋役および小郡宰判大庄屋役などを歴任して幕末に至った。 宰判とは、広域の村々を代官が支配する萩藩の行政区画であり、大庄屋は宰判ごとに置かれて各村の庄屋を統括し、代官行政を補佐する役職であった。
 この絵図は、萩藩の行政区画であった宰判(藩の代官が管轄する広域支配の単位)の内、小郡宰判全域を彩色鮮やかに微細に描いた256×156cmの大型絵図である。 小郡宰判は、現在の吉敷郡小郡町、秋穂町、阿知須町の全域と、山口市南部(陶・鋳銭司・名田島・秋穂二島・嘉川・江崎・佐山地域)、宇部市東部(岐波地域) および防府市西部(台道地域)からなり、かつての周防国吉敷郡の南部地域に該当している。山や島などは鳥瞰図風で絵画的に描かれているが、それ以外の生活空間(耕地・道路・川など)は色分けされている。また、文字情報は、当時の村名や主要な小字名 (白地丸囲黒文字)、寺社の位置(黒地に白文字)のほかに、萩藩家臣団の知行地(給領地)が紫色で彩色され、赤地に白文字で給領主名(家臣名)が記載されている点が特徴である。
 この絵図の成立年代を知る非常に重要な情報は、絵図に描かれた「柳井田関門」である。この関門は、文久3(1863)年に藩主毛利敬親が居城を萩から山口へ移されたことに伴い、山口の防備を固めるために小郡宰判下郷村(現在の小郡町下郷)に築かれた防御施設である。
この絵図には、慶応2(1866)年2月に築造された三角台場が記載されていないようなので、絵図の成立は少なくとも文久3年以後、慶応2年までの間と考えられる。