旧山口高等商業学校蔵書

1.両大樹御上洛昇平寛永行幸之図

 元和9(1623)年、徳川秀忠は、将軍職を譲り、大御所となった。寛永3(1626)年、 秀忠、家光は、7月から8月にかけて相次いで上洛し、参内した。又、9月には後水尾天皇が 二条城に行幸された。
 本書は、前半が、秀忠が宮中に参内したときの行列、後半は帝が二条 城に行幸されたときの図である。
2.讀書續録 薛せん撰 12巻 朝鮮刊本 成化元年 4冊

  本書は、明の朱子学者せつせんの著。成化元年(1465)の朝鮮本で、めずらしい。
 山口高商の校長を勤めた横地石太郎氏の寄贈。 もと山口市の洞春寺所蔵であったのが、京都の古書即売会に出ていたのを氏が買い取ったもの。
 横地氏は、「坊ちゃん」に登場する「赤シャツ」のモデルといわれ、 松山中学校の同僚として夏目漱石と親交があった。

山口明倫館蔵書

  明倫館は、亨保3(1718)年に創設された萩藩の藩校である。
 文久3(1863)年、藩府の山口移転に伴い、明倫館は萩明倫館と改称し、以後教育の中心は 山口明倫館に移るが、明治5(1872)年の藩校廃止時には、蔵書が3万冊以上あったと推定される。
 山口明倫館は明治3年学制改革で山口中学になったが、萩明倫館と同様明治5年に廃止され、両明倫館の蔵書の 多くは散逸した。現在、山口大学附属図書館が所蔵する図書、漢籍、5,072冊の旧蔵書は、山口師範学校に引き継がれたもので、明倫館旧蔵書は、 山口大学のほか、山口県立山口図書館、山口県文書館、萩高等学校、萩市立図書館等に散在している。
 幕末期に目まぐるしい変遷があった明倫館旧蔵書には、様々な蔵書印が押されており、その収集時期やルートをうかがうことができる。
3.長門本平家物語(写本) 3-20巻18冊 丙寅改、戊辰改、辛未改、明治14年改

  「平家物語」の読み本系諸本の1つで、全20巻からなるが、本学所蔵図書は、巻1及び巻2が欠本となっている。
  長門国赤間関(現下関市阿弥陀寺町赤間宮)の阿弥陀寺に所蔵されていた本が有名で、長門本と呼ばれる。
  伝本は、「長門平家物語」「平家物語長門本」「長門本平家物語」など数様ある。いずれも江戸中期以降の写本で、版本はつくられていない。
4.五代史 74巻 万暦4年(1576)有欠本 「思永館」「奇兵隊」旧蔵図書

 「奇兵隊印」と「思永館」の2印がおされていて珍しい。思永館は小倉藩の藩校である。
 慶応2年、第二次長州征伐時、長州軍は幕府方の小倉藩を攻め、小倉城を落城させた。「思永館」 の印のあるこの書物は、奇兵隊が戦利品として持ち帰り、隊の蔵書としたものである。

棲息堂文庫

 棲息堂文庫は、徳山毛利家が江戸前期から明治初年にかけて収集した和漢書籍の総称である。
 第3代目藩主毛利元次(1667-1719)は、和漢の学を好み、居館の近くに読書の処として建物を造り、棲息堂と名づけ、文庫を設けて古今の書を収蔵した。 棲息堂は、正徳5年(1715)の徳山藩改易時に取り壊され、亨保4年(1719)の徳山藩再興以降も再建されていないが、 改易時萩藩に移された書籍は徳山藩に戻され、以後、歴代藩主は図書の収集に勤めた。
 明治29年(1896)、徳山毛利家では、これら蔵書の選りすぐりの善本、和書405部、漢籍645部ほかを宮内庁に寄贈した。 (「徳山毛利棲息堂蔵書目録」)この寄贈から除外された書籍の内、昭和39、42年の2回に分けて毛利就挙氏のご厚意により、 山口大学に8,208冊の寄贈があり附属図書館に収納された。目録は昭和61年(1986)に「山口大学所蔵棲息堂文庫目録」を刊行している。
 和漢の善本のほか、幕末・明治期の実用書が多く含まれる。
5.繍榻(しゅうとう)野史 2巻 【明刊】  江籬館

徳藩蔵書の印

 徳山毛利は正徳六年(1716)に一度取りつぶしにあい、亨保四年(1719)に再興した。漢籍の蒐集家であった毛利元次の蔵書は一旦本藩の明倫館に収められ、再興のときに返却された。徳山藩では「明倫館」の印のあるものを快しとせず、 わざと肉太の「徳藩蔵書」の印を押し直して、もとの印を隠している。
6.長防臣民合議書 1冊 元治2(1865) (木活)

 慶応二年(1886)3月、徳川幕府による第二次長州討伐を前に、長州藩は、藩の蔵版局に命じて「長防臣民合議書」36万部を印刷させ、藩の内外に配布した。  
 これは、当時の長州藩の正義の立場を主張するためのもので、士、農、町民が一体となって、当時の難局に処する決意を表明したものである。
7.新刻蘇板[全相大字]元亨療馬集【明刊】4巻6冊 喩本元、喩本亨撰 金陵 世徳堂 付:医駱駝薬方1巻

 元亨兄弟の著になる療馬集は、刊記(著者名、出版元、出版地及び出版年月)が無いために、中国においても刊年の確定がなされていない。
 しかし、棲息堂の蔵書春巻28丁5疔十毒病源之図には1546年を示す年号と兄弟の氏名・号等の刊記があり、この刊記によって、本書の正式な刊記が確定された。
 (解説:日本獣医史学会 白水完児氏)

山口ゆかりの戦国武将の書状

大内義隆(1507〜1551)
  周防山口を根拠に、西中国から北九州にかけて7ヶ国を領した守護大名。戦乱を避けて義隆を公卿、文化人を保護、大内ザビエルを引見し、キリスト教布教を許可するなど、 義隆の時代に大内文化は最盛期を迎えた。
 1551年重臣の陶晴賢の謀反により、自殺した。
8.大内義隆書状

本状は、大内義隆から大友義鑑宛に援軍派遣についての督促状であるが、花押が消されているので、実際には、送られずに終わったものと思われる。
毛利輝元(1552〜1625)
 毛利元就の孫。豊臣家5大老として、中国7カ国を領有。関ヶ原では西軍の総大将に押され敗戦、家康により周防・長門37万石に減地された。
9.毛利輝元書状

関が原後に入道して、宗瑞と号した毛利輝元が二男の日向守毛利就隆(徳山毛利の租)に宛てた正月の慶賀への礼状。
下2通は、いずれも家臣に宛てた屋敷や知行地の安堵状である。
  
小早川隆景(1532〜1597)
 毛利元就の三男。小早川家へ養子に入り、兄吉川元春とともに、「毛利の両川」と呼ばれた。主に山陽方面を統治し、 毛利家の発展を補佐した。 のち、秀吉に重用され、中納言、5大老に列した。
10.小早川隆景書状

本書状は、太刀と三原酒、肴を届けよ、という家臣宛の書状で、細かな指示が記されている。
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